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これが私の生きる道 (こうのジャーナル12.01より)

学歴社会の考察からの新保守主義

 昨日、ゼミにおいて、学歴社会についての討論を敢行した。結果、学歴基準に基づく現在の人材採用方法は非効率であるどころか、採用における機会費用の最小化において効率的であり、現代の学歴社会を肯定とする意見が多数を占めた。
 確かに、学歴という“階級”を差し置いて、その者個人の能力を測るというのは、ないわけではないと思うが、難しいことであり、金のかかることなのかもしれない。また、組織内においても、トップ層を同じ学歴で固めたり(例えば、省庁におけるキャリア官僚は東大が占める)、OBなどのコネを使って、同じ学校の後輩などを優先的に採用したりすることは、信用と安定の意味で必要なことかもしれない。これを完全に否定できる論理は存在しないだろう。そして、このことが現在の日本の多数を占める考えであることも否定はしない。
 しかし、今のこの状況でいいのか。現在の日本は、一部優良大企業の成長やそれらへの外国からの投資によって、若干の回復基調であるが、やはり現在の経済力を保ちうるほどの企業の国際競争力があるとはとても思えない。グローバル化によって日本に国際基準が適用された今、依然、多くの国内企業は、外国企業の脅威に対して防御できる力を有していないのである。そして、このような国際競争力が低い産業にこそ、金融業を始めとする、依然、学歴社会という旧態的な制度に浸っている企業が多い。また、民間ではなく政府の方を取ってみても、特権に浸りや硬直化が進む官僚組織では典型的な学歴社会である。対して、トヨタやキャノンなど日本をリードしている企業や、ソフトバンク、楽天、ライブドアなど、現在ではリードしているとまでは言えないかもしれないベンチャー発の成長企業では、完全に学歴など無価値な状態にある。つまり、幅広く人を集めることで、これらの企業は組織が活性化したことにより発展してきたのである。学歴社会を使った人材登用は、機会費用がかかるということに名を打ち能力のある者を見極めるという努力をしない、単なるサボタージュであり、学閥を構成するなどに至っては、高学歴の幹部が競争を組織内の持ち込ませんとする自己保身のための言説に過ぎないのではないか。これでは、少なくとも人材の質の点において、この企業は何の発展性もなく、国際競争の中で埋没して滅んで行くだけである。
 現代かつ将来の国際社会は、間違いなくグローバル化の方向に持続、あるいは加速し、国際競争力の荒波を日本一国が止めることは不可避である。かつて、鎖国の中に浸っていた日本が、欧米列強の帝国主義の潮流を防ぎ得た手段はあっただろうか。答えはNoである。当時の日本は、黒舟によって、自国の否応なしに国際基準の中に引きずり込まれることを余儀なくされ、近代化の道を余儀なくされた。結果、単なるモノマネではなく自国に見合った新制度を作り上げた日本は危機を脱出し、世界の大国の道を歩むこととなった。対して、あくまでも旧態依然的な制度に固執した他の国はどうなったのであろうか。列強の競争力に完敗し、次々と植民地化され支配される道をたどることになったのではないか。戦後日本は、確かに高度経済成長の中で奇跡的な復興と経済大国化をなし得たが、もはや、そのピークは過ぎ去ってから20年近く経過した。それにも関わらず、その間の発展によって築き上げられた余裕に安心しているのか、危機感覚を持たず、依然、かつての企業制度に浸っている人々が数多く見受けられる。しかし、改革を要請する大転換期は、まさに再びやって来たのである。これを拒み、変わらなければならないということに対して抵抗するのであれば、かつて植民地化された多くの国と同じ運命をたどることになり、何より先人たちの恩恵に浸っているだけで、彼らの決断の本質を何も理解せず、それを水の泡に帰し、未来への日本への期待を裏切ることになろう。
 現在の日本においては、単に国際競争力の向上だけが課題なのではない。少子化・高齢化への対応、莫大なる国債の処理など、本当に解決できるのか自信が持てないが解決しなければ亡国の道をたどることになるという危機的課題に枚挙の暇がない。よって、日本は変わらなければならないのだろうなぁ、という総論的意識はメディアを通した啓蒙活動のおかげか、多くの国民が有しており、改革に対して賛成の方向となっている。しかし、それを受けた広範囲の大改革の途上にあって、自らが浸っているあるいは浸ろうとしている特権が脅かされる改革が迫ってくると、それまでの改革への意識を全くひっくり返し、変革に抵抗する。これでは、結局、まさに「総論賛成、各論反対」であり、社会や周りのことを何も考えず、自己中心的な保身をしているだけであって、何より、長期的なスパンで見れば自らを自らの手で悪い方向に陥れているという愚か極まりない行動に過ぎないのではないか。
 日本には保守主義者が多いらしい。保守主義というのは、「古くからの習慣・制度・考え方などを尊重し、急激な改革に反対する」という考えである。確かに、先人たちが築き上げてきた古くからのものを尊重することには賛成だ。それの恩恵に浸っている我々がそれらに対し敬意を払うのは当然のことである。しかし、危機的状況にあっても、自己保身のためになにがなんでも、急激な改革に反対し続けることというのは無価値ではないか。状況が異常な状況下においては通常の感覚のままでは、対応できない。今日の状況を理解すれば、通常では異常であっても、もはや通常の状態ではないので、急激な改革であっても断行すべきである。つまり、私は、先人たちの築き上げてきたものも尊重しつつ、状況によっては、自己保身もせず、臨機応変に対応し急激な改革をも厭わないという新保守主義を提唱する。このことこそが現在の日本においては、まさに求められる感覚ではないか。
 繁栄やそれを受けた安定というのは素晴しいことだ。できることならば、永遠にその状況が続いて欲しい。しかし、永遠の繁栄というのは、所詮、仮想上の期待であり神話に過ぎない。かつて、清王朝は「眠れぬ獅子」として絶大なる繁栄に浸っていたが、旧制度にしがみついてきたために、いつの間にか“死んだままの獅子”となり、滅亡の道を突き進むことになった。李鴻章が欧米風の制度を取り入れた改革を行ったものの、それは、上層階級の保身を前提にしており、結果的には改革としては足りないものであったのだ。
今日の日本では、メディアによって多くの人々が不味いのかなぁと思いつつ、一人一人が何もしなくとも、現在の豊かな暮らしが続くのではないかという、結局は、楽観的な考えの下にあるとしか思えない。しかし、危機的課題は間違いなく存在している。このまま座して死を待つのは、私は嫌だ。まだ、この日本に国力がある今こそ、打って戦いに挑み、かつて、先人たちが行ったように、方向を問わず検討し、単なる外国のモノマネではない思い切った諸改革を断行することこそが、課題克服にまさに求められていることなのであると私は確信する。
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