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日教組の倫理


 私は、日本をダメにする存在として、マスコミと日教組に憎悪感を持ってます。これは確信的なものです。彼らは戦後民主主義を風潮しますが、その度合いが間違っているのですね。世の中、完全に認められる概念なんてないのですね。例えば、「人を殺してならない」という命題は完全に正しそうですね。しかし、一部では是認されてます。死刑制度は国家による殺害です。このように程度を調整しなくちゃいけません。

 日教組の主張する民主主義とは、単なる無秩序です。個人個人がよく考えて自分の意思で行動しなければならないというものですが、現代、人間は社会の構成員として一定の枠組みの中で行動することが要求されます。働く前の高校生ならまだ良い。なぜなら彼らは、成人していない、まともな“人”に成っていないとされているのですから。ただ、そういった、秩序を守るといったことを学んでいかなくてはいけません。そもそも、学校はなぜ集団生活を要求されているかというと、社会に巣立つ前に協調性を身に着けなければならないからです。そんな学校の教員が、協調性のかけらもない行動をしてもよろしいのでしょうか。いいはずがありません。そんなことは少し考えれば分かるでしょう。つまり、日教組の教員たちは協調性は要らないと考えているのですね。新左翼のように暴徒化はしてませんが、間違いなくその方向である反社会的分子と言っても過言ではないでしょう。私はそんな日教組を許さない。

 私は、小中高の中で、国歌を歌わないとか起立をしないという人を見たことはありませんでした。中高は私学といえどもキリスト教系の、小学校に至っては広島市立です。いかにも左翼色が強そうな広島ですよ。そんなこともあってか、あえて、国歌を歌わないということがさっぱり分からないですね。歌が悪い?確かにあれは君が代の君とは天皇のことらしいですが、短いのですから我慢したらいいと思いますね。たかがこれぐらいのことで我慢できないと社会でやっていけないでしょう。

 「いやや、自分にとってはたかがではないのだ。」― なるほど、無秩序なる自由ですね。確かにあなたにとってはそうであるけれども、社会一般においてはどうなのでしょうか?全国民に国歌・国旗の是非について投票してはどうでしょうか?そうすれば私は明らかに是となると思いますけどね。そもそも、なぜこのような左翼勢力はそのようなことを提唱しないのか?よほどそのほうが、左翼の主張する民主主義にかなってます。どちらにしろ、国旗・国歌反対論者の日教組は、意地にでもなってるのでしょうか?全く理解不能です。

 日教組の組織率は年々低下しており、現在では2・3割しか加盟してないのですね。もうそこから、いかに彼らがカルトチックな団体になってるかが分かりますが、いまこの文章を読んでいる方は一度、日教組のサイトを見てみてください。うわさに聞いていましたが、その想像以上でした。彼らは今現在、日本が軍国主義国家であると信じているのでしょうか。麻生太郎の話を借りましょう。とある中国の青年がいました。彼は日教組と同様、中国の教員から、日本は軍国主義国家であると長年に渡って教えられてきました。そこで、東京にやってきた。滞在して3ヶ月、日本の首都たる東京で、いまだに軍人なる者に遭遇したことがない。このような国が軍国主義国家であるはずがない。これこそが、まともな国際感覚です。私たちはそのようなまともな感覚をもっと大事にすべきです。



<国旗国歌>都教委の「強制は違憲」東京地裁が判決 

(毎日新聞 - 09月21日 16:31)

画期的な判決に大喜びの弁護団=東京地裁前で21日午後1時40分、堀和世写す


 入学式や卒業式で日の丸に向かっての起立や君が代斉唱を強制するのは憲法で保障された思想・良心の自由を侵害するとして、東京都立高の教職員ら約400人が都教育委員会を相手取り、起立や斉唱の義務が存在しないことの確認を求めた訴訟の判決が21日、東京地裁であった。難波孝一裁判長は「強制は違法、違憲」と判断し、起立や斉唱の義務がないことを確認したうえ、一人当たり3万円の慰謝料の支払いを命じる判決を言い渡した。

 都教委は03年10月23日、都立学校の各校長に「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」という文書を通達。国旗に向かって起立▽国歌斉唱▽その際のピアノ伴奏▽こうした職務命令に従わない場合に服務上の責任を問われることを教職員に周知--との内容で、これに従わず懲戒処分を受けた教職員らが提訴していた。

 判決では、「国旗掲揚、国歌斉唱に反対する者も少なからずおり、このような主義主張を持つ者の思想・良心の自由も、他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する権利。起立や斉唱の義務を課すことは思想・良心の自由を侵害する」と判断。

 さらに、「通達や都教委の一連の指導は、教職員に対し、一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制することに等しく、教育基本法10条1項で定めた『不当な支配』に該当し違法」と指摘した。
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依存


 私の高校には小池という先生がいた。彼は英語を教え、個性的な教員が多い我が校の中でも際立ち、その口調とポーズ、主義主張が多くの生徒に揶揄されていた。特に私の親しい友人の一人には、生物の時間に内職して、『小池論』と名を得った漫画を書き続け、それが大変面白かったのを覚えている。

 そんな彼は、「ねらってくわい!」と言いつつ、毎回の定期試験で自由英作文を課し、入試の予想問題を出していた。確か、その中に、「少年・少女に携帯をもたせるべきか、否や」のようなテーマの問題があったような気がする。個人的には、一定の年以下の者、例えば小学生+αには、携帯電話、インターネットなどの通信機器は持たせるべきでないと考える。なぜならば、彼らが所持してもさほど社会的な利便性が向上するとは思えず、人間としても全然未熟であり、社会に氾濫している情報に対する判断ができない可能性がかなり高いからだ。では、だからと言って、例えば彼らに所持を禁止するようなことは、現実問題として可能であるか?

 今は知らんが、当時は我が校では携帯の所持は禁止されていた。また、全校生徒の半分以上を占める寮生では、寮において携帯のみならずパソコンの使用が禁止されていた。しかし、皆さん日々世話になってるように、これらのものは我々に大変多くの情報を与えてくれ、大変、便利なものである。結局、禁止はされてるものの、私を含めてほとんどの生徒が携帯を所持し、また、中にはパソコンを持ってる者もいた。

 このことは、人間は、便利な物に対してなかなか捨てがたく、それを所持し行使したいという欲求には勝てないということを示している。先ほどの例は、広い世界の中では些細な事例に過ぎないだろうが、大きな次元では、環境問題や核問題がそうであろう。最終的には自分の首を絞めることになるのについつい所持したり使ってしまう。良く考えれば、現在の発達した文明社会においては、多数の事例を見つけることができると思う。

 今日の文明社会の発端は、18世紀にさかのぼる。イギリスにおいて、人工動力を発明した第一次産業革命が発生した。石油、電力という効率的な燃料を用い、動力の生産力を飛躍的に向上させたのは、19世紀以降の第2次産業革命。そして現在、20世紀後半から現在も継続中である第3次産業革命においては、情報技術の発展が著しい。インターネットは、この文章を今現在、見ているあなたでも分かるように、明らかに便利だという実感を人間に与えている。しかし、同時に見えないところで、自分の個人情報を、誰かに垂れ流し続けている。例えば、自分の名前を検索してみると、自分の情報が意外と多くあるれていることが良く分かるだろう。これはつまり、他人においても同様なことだ。そこで、「それはいやだ」、「全く知られたくない」と思うなら、二度とネットなんて使わないことだ。それしか根本的な解決策はない。しかし、そんなことはできない。人間は、大火傷するまで、一回しめた味をなかなか忘れられない。それは私にも当てはまることだ。

コモンセンス



「非常識な人間になってはならない」

最近、こう、つくづく思う。非常識なことをするな、非常識な奴は嫌いだ、ということが言いたいのではない。そんなことはどうでもいいのだ。

冒頭の言葉には、次の二通りの解釈があると考えられる。

「非常識な行動をする人間になるな」
「常識を知らない人間になるな」

つまり、常識に則って行動することと、常識を理解していることは違うのである。

多数の人間を相手にする際には、たとえ非常識な行動をする場合でも、「一般的にどう言ったことが罷り通っているのか」「普通の大衆は何を考えているのか」といった“当たり前”とされていることを必ず理解しておく必要がある。しかし、それを実践している人間や、そのこと自体を意識し理解している人はどれくらいいるものか。また、そもそも、常識を正確に把握することは、当たり前と言えども、難しいことではないのか。しかも、常識は日々、変化し続けるものであろう。

世の中には、人に注目されるような大きな舞台に立つ人間もいる。こういった人たちは非常識的な空間の中で、一般人がすることのない、非常識的な生活を行なっているはずである。このこと自体は大いに結構なことだ。しかし、次第に、自分がまるで世界の中心にいるかのごとく勘違いし、単に非常識な行動をするだけでなく、一般的な話を忘れてしまう危険性がある。現にそのような人は多く存在し、そのまた多くが自覚していないだろう。たが、大きな舞台で自分が扱う対象となるのは、まさに一般人なのである。

“当たり前”のことを知ったつもりになりきることなく、常に人が何を考え、社会では何が求められているのか。そういったことに目を配り続ける謙虚さを持っていたい。

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